――不思議な女と出会った。
毎晩同じ時間に公園に現れては、気易くオレに喋りかけ、気が済んだら去っていく。
……だというのに、自分の名前は決して名乗らない。
そんな、わけのわからない女。
だけど、一番わけがわからないのは……
あいつに会えることを期待して、毎日同じ時間に公園に通ってしまう自分自身だった。
* * * * * * * * *
「…………はあ」
とある夜の仕事終わり。
いつもと同じように公園に向かう足取りが、その日は格別重かった。
理由は……母親と久しぶりに大喧嘩をしたから。
喧嘩の原因はいつもと似たようなものだ。
母親が新しい男と逢引しているところにオレが鉢合わせ、子持ちだとバレて男に逃げられた。
その八つ当たりを母親から食らい、ブチ切れて口論になった。
……ほら、いつも通りの内容だ。
(けど……最近は、結構我慢出来てた気がすんだけどな……)
あの名前のわからない女と出会い、家の愚痴を聞いてもらえるようになってから、オレのキレ易さは随分緩和されていたはずだった。
それが、今回は久しぶりに本気で頭に血が上ってしまった。
(あのバカ親が、オレを怒らせるからいけないんだ)
思い起こすと、またむかむかとした気持ちが込み上げてくる。
(……今日は、やめとくか。公園行くの)
今、この状態であいつに会ったら、とんでもない悪態を吐いてしまう気がする。
ブチ切れるオレを見てあいつがどんな顔をするのか、想像もしたくなくて、公園に向かっていた足がピタリと止まった。
(やっぱりやめよう、今日はもう誰とも会いたくない)
そう心に決めて、踵を返そうとすると……
背後からチャリンチャリン、と自転車のベルの音がした。
驚いて振り向くと、そこには自転車を押して歩くあの女の姿があった。
「よっ、不良君! 公園に着く前に会うなんて、珍しいね」
「……お前こそ、チャリで来るなんて珍しいな」
「実は、今朝遅刻しかけちゃってね。奥の手でこの子を使ったの。
いつもはお母さんが起こしてくれるから遅刻なんてしないんだけど、今日は仕事で朝からいなくて」
「…………」
こいつはいつも通り、にこにことしまりのない笑顔を浮かべている。
その能天気な表情を見ていると、むしょうに腹が立った。
オレもこいつも、同じ子どもなのに。
どうしてこうも境遇が違うのだろう。
こいつにはきちんと高校に行かせてくれて、毎朝起こしてくれる優しい母親がいる。
だというのに、どうしてオレの母親は、あんなクソの塊のような駄目女なんだろう。
どうして、どうして。
そんな疑問が後から後へと噴き出し、耐え兼ねたオレはあわててその場から逃げ出そうとした。
このままここにいたら、本当にまずい。自分が何をしでかすかわからない。
そう思ったのに……。
「待ってよ、不良君!」
「ぐぇっ!?」
こいつはオレの服をガシッと掴んでくる。
振り払おうともがくものの、どこにそんな力があるのか微動だにしない。
「何すんだよ、離せよ!」
「せっかくだから、今日はこのままサイクリングしない?」
「は? さいくりんぐ?」
「自転車は君が漕いでね、男の子なんだから。私は後ろに乗るからね」
自転車のスタンドを立て、こいつは「ほら!」と促しながらサドルをぺしぺし叩く。
「いや、意味わかんねぇよ。今日はそういう気分じゃ……」
「ダメなの? あ、もしかして不良君、自転車乗れないとか……?」
「は? 乗れるに決まってんだろ、それぐらい!」
「んじゃ、何も問題ないよね」
にこっ、と満面の笑みを向けられ、ぐっと言葉に詰まる。
(ハメられた……)
そう後悔するものの、もう遅い。
オレは渋々自転車に跨ったのだった。
* * * * * * * * *
「わ~速い速い! 不良君すごいよ!」
半ばヤケになったオレは、夜の街中をぐんぐんと自転車で駆け抜けていく。
後ろに乗っているこいつは、嬉しそうにはしゃいだ声を上げていた。
「お前がいなきゃもっと速く漕げるんだけどな」
「え、わたし、もしかして重い?」
「おー、重い重い。コンクリート運んでるみてーだ」
「ちょっと~、女の子にそれは言い過ぎじゃない?」
嘘だった。
こいつの身体は、重さなんてあるのか? ってびっくりするほど軽い。
それでも「あ~重い重い」なんて言ってわざと失速してみせると、こいつはポカポカとオレの背中を叩いてきた。
「痛ぇだろうが!」
「不良君がデリカシーないのが悪い!」
文句を言いつつも、こいつといつも通りの会話が出来ていることに、オレは内心ほっとしていた。
夢中になって自転車を漕いでいる間に、苛立ちは随分おさまっていた。
……それでも、胸に引っかかるもやもやとした想いは消えない。
楽しい時間は今だけで、このサイクリングが終わったら、オレはまたあのクソ親の待つ家に帰らなければならない。
それに気付いた途端、一気に気分が重くなり、つい無言になってしまう。
しばらく続いた沈黙を先に破ったのは、こいつだった。
「不良君、見て!」
「は? どこをだよ」
「空だよ、空!」
「いや、運転中によそ見したら事故――」
(……あ)
顔を上げると、そこにはまばゆい小さな星の光が、空いっぱいに瞬いていた。
全力疾走している間に、どうやら郊外まで到達していたらしい。
街灯が少なくなった分、星がいつもよりもずっと綺麗に見えた。
「……キレーだな」
「これを見られたのは、不良君のおかげだよ。
私の足じゃ、君を乗せてこんな所まで来られないからね。不良君はすごいねぇ」
「別に、すごくなんて……」
「ねぇ、不良君は誰から自転車の乗り方を教わったの?」
こいつの質問に、一瞬動きが止まる。
バランスを崩しかけて、あわてて体勢を立て直した。
「ちょっ、不良君、大丈夫?」
「…………親父」
「え?」
「乗り方教えてくれたのは、死んだ親父」
――まだ父親が生きていた、うんと昔の頃。
ガキのオレがよたよた自転車を漕ぐのを、親父は懸命に応援してくれた。
オレがこけるたびに『大丈夫』って励まして、後ろから支えてくれた。
オレが無事に乗れるようになった時は、母親もそろってみんなでお祝いしてくれた。
それはまだオレが、普通に幸せな子どもだった頃の記憶だ。
「…………」
オレは地面に足をつき、ついに自転車を止めてしまった。
……妙なことを考えてしまった。
幸せな頃の記憶なんて、思い出しても辛いだけなのに。
唇を噛み締めていると、後ろからぽんと肩を叩かれる。
「不良君。お母さんとまた何かあった?」
「は……?」
「ここには私しかいないよ。素直に話しちゃっていいと思うけど」
「…………」
「大丈夫。不良君の顔は見ないであげるからさ」
すると、こいつはオレの背中に頭を押しつけてくる。
なんだかそれ以上頑なに拒むのも面倒になって、気付けばオレは口を開いていた。
「別に、いつものことだ。
母親が男といるとこに出くわしちまって、文句言われただけ。
ババアが男なんかに振り回されて、ダセーよな」
「お母さんに何て言われたの?」
わざとぼやかしたつもりだったのに、こいつは細かく突っ込んでくる。
「なんでンなことお前に説明しなきゃなんねーんだよ」
「なんとなく。全部話した方が、すっきりするんじゃないかと思って」
「……なんだよ、それ」
そこでこいつは黙り込む。オレの言葉を待っている様子だ。
(母親に何を言われたかなんて、そんなの……)
『あんたのせいで、ぜんぶ台無しになったのよ』
『絶対に許さない』
『こんな息子、欲しくなかった』
『あんたなんか、生まなきゃよかった』
……そんなこと、口にも出したくなかった。
こんな身内の恥に、こいつをこれ以上巻き込んでしまいたくなかった。
オレが頑なに口を閉ざしていると、身体に、こいつの細い腕が回される。
そして、そのままぎゅっと抱きすくめられた。
「そうやって我慢する不良君は、お母さん想いの優しい子だね」
お母さんのことを守りたいから、誰にも話したくないんでしょう?」
「…………!」
違う、そうじゃない。
オレはこんな話を、こいつに聞かせたくないだけだ。
こいつに聞かせて……少しでも嫌な気持ちにさせて、嫌われたくないだけ。
ただ、オレが弱いだけなんだ。
そう言いたいのに、言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。
「不良君は優しいね」
「……違う、オレは」
「不良君が私のお願いを聞いて自転車を漕いでくれなかったら、こんな綺麗な星空は見られなかったよ。
私、今すごく嬉しいよ。
不良君の優しさは、他の誰かを喜ばせてくれる力がある。
だから、その優しい気持ちを大事にしてね」
そう言って、さらに腕に力を込めてくる。
背中から伝わる体温が、あったかくて、心強くて……
オレはこいつが見ていないのをいいことに、ほんの少しだけ泣いてしまう。
それが、オレと不思議女の、最初で最後のデートの思い出だった。
* * * * * * * * *
「ごめんね、シュン~……」
「別にいいけどよ……。ったく、お前はマジでどんくせーな」
夜の冥府の森の中、オレはなぜかパートナーのアホ毛を背負って歩いている。
理由は話せばそれなりに長くなるんだが……
こいつと一緒に、森に住んでいるふくろうのモン吉に会いに行ったら、調子こいてはしゃぎまわっていたこいつが迷子になってしまい、
あわてて探し回り、何時間も掛けてようやく見つけたと思ったら足をくじいて動けない状態になっていて、
仕方なしにこうしておぶって連れて帰っている……というわけだ。
「ふくろうとガチで追いかけっこして足くじくとか、何才児だよ」
「17才児です……」
あきらかにしょぼくれた様子で呟くこいつに、少し笑ってしまう。
「ほら、もうすぐ森を抜けるぞ」
「そうだね……わぁっ!」
森を出た瞬間、こいつが感嘆の声を上げる。
それにつられて顔を上げると、空いっぱいに、無数の星の光が散りばめられていた。
「すごいすごい! 綺麗だね~、シュン!」
「ああ、そうだな……」
(……なんか思い出すな、昔のこと)
以前にもこうして、こんなに綺麗な星空を、こいつとともに見上げたことがあったっけ。
こうして、背中にこいつの体温を感じながら……。
「現世でもこんな風に、2人で星を見たよね。覚えてる?」
「……ああ。もちろんだ」
生前の記憶を、こいつと共有出来る。
そんな奇跡が、どうしようもなく嬉しい。
「たぶんね、わたし、あの頃からシュンに恋してたと思うんだ」
「……は?」
しみじみ幸せを噛み締めていたところにとんでもないことを言われて、思わず足が止まる。
「あの時ね、わたしを乗せて自転車を漕いでいくシュンの背中が広くて、頼もしくて、びっくりしたの。
男の子なんだなぁ、かっこいいなぁ、好きだなぁ……って」
「な、何言って……」
「今もそう。シュンの背中があったかくて、優しくて、すごくドキドキしてる。
それから、そんなシュンが大好きって思ってる」
「……お、お前なぁ……」
「ありがとう、シュン。
わたしと出会ってくれて、関わってくれて……たくさん優しくしてくれて」
すると、右の耳にほんの一瞬、何か柔らかいものが触れる。
「っ!? なっ、お、お前、今、キ……!?」
「ふふっ。いつもありがとう、シュン。大好き!」
こいつはオレにぎゅっとしがみついて、楽しそうにくすくすと笑った。
(……礼を言わなきゃならねぇのは、オレの方なのに)
現世で希望を失くしていた『春斗』を救ってくれたのも、
冥府でふてくされていた『シュン』を救ってくれたのも、全部こいつだ。
こいつがいてくれたおかげで『春斗』は暗い日常の中に光を見つけることが出来たし、
『シュン』はずっと憧れていた“普通の幸せ”を手に入れることが出来た。
どれだけ感謝してもし足りないのは、どう考えてもオレの方なんだ。
『好き』の気持ちが大きいのも……。
「……お前、家に帰ったら覚えておけよ」
「え、何が?」
「今の、き、キスの……10倍返ししてやっからな!」
「え……えぇっ!?」
素っ頓狂な声を上げるこいつ。
そうと決めたら善は急げで、歩く速度を速めると、こいつはあわてたようにポカポカとオレの背中を叩いてくる。
きっと今頃真っ赤になっているだろうこいつの顔が見られないのは残念だけど……その分、家に帰ったら思い切り堪能してやることにしよう。
そんな小さな計画に幸せを感じられる今の暮らしが、どうしようもなく愛しい。
この死後の世界で、そんな幸せをもっともっと育てていきたい……。
無数の星空に見守られながら、オレはそう願うのだった。