Special

ナミ birthday short story

――春のおだやかな陽気に包まれた、とある午後の時間。

書斎で仕事に没頭している俺の耳に、ノックの音が届いた。
視線を上げると、俺の最愛の妻――
『津田原サナ』が、ひょっこりと顔を覗かせていた。

「鳴海さん。少し、良いですか?」
「お前か……。仕事中は部屋に入るなと、いつも言っているだろう?」
「でも……鳴海さん、私が止めないと、ずっと部屋に籠りきりになってしまうでしょう?
 寝食すら忘れて! そんなの、妻として見過ごせません」
口を尖らせる世話焼きの妻に、俺は苦笑するしかない。
仕方なく手にしていたペンを置くと、サナはテーブルにお茶と菓子の用意を広げた。

それらの食器は、結婚前……
俺達が今の家に越して来る前に買ったものだ。

しがない学者で、金も地位もない俺は、ほとんどサナに贅沢をさせてやれない。
2人で暮らすこの家も相当なボロ家だし、調度品も総じて古びている。

だが、料理好きなサナのためにも……と、
調理器具や食器だけは、長く使えそうな、やや高価なものを揃えていた。

そんな俺の贈り物を、こいつは毎日、後生大事に扱い、
あたたかい食事や手の込んだお茶請けを与えてくれる。

もともと食への関心が皆無だった俺だが、
サナのおかげですっかり舌が肥え、身体も健康的になってしまった。

それをぼやくと、「鳴海さんの胃袋までわたしのものに出来ているんですね」と得意気に笑う。

そんなサナの笑顔に、敵わないなと思わされた。

家事が得意で、気遣い屋で夫を良く立て、性格も優しく朗らか。
少女のあどけなさから大人の女性へと成長しつつある落ち着いた容姿も
近所で評判になる程度には整っていて、つくづく、何故こいつが俺の妻になったのだろうと首を傾げてしまう。

金や地位はおろか、頼りに出来る身内もいない、愛想もない……
“ない”ものだらけの俺。

そんな俺なんかに、どうしてサナは寄り添ってくれるのだろう?

淹れてくれた茶を口に含みながら、そんなことを考えていると、サナと視線がぶつかった。
「どうかしましたか?」
不思議そうに首を傾げる、その仕草ひとつも愛らしい。
だから、尚更思ってしまう。

「……どうしてお前は、俺のそばにいてくれるんだ?」

……と。

「サナなら、俺なんかよりももっと良い男が見つかるだろう。
 金も地位もあって、性格も良くて、お前をとびきり幸せにしてやれる男が……」
一度零れた疑問は、簡単には止まらない。
するとサナは、何がおかしいのか突然クスクスと笑い出した。
「俺は真面目に尋ねてるってのに……」
「ふふ、ごめんなさい」
謝罪をしつつも、その表情は相変わらずニヤニヤとしているままだ。
少し拗ねた気持ちになっていると、サナは手を差し伸ばし、俺の眉間を突いた。
「怖い顔になっていますよ」
「もともとこういう顔だ」
「そんなに気になりますか? わたしが、鳴海さんのそばにいる理由」
「それは……」
「そして、鳴海さんがそれを気にする理由は……
 わたしが鳴海さんのもとから離れていくのを心配しているから、ですか?」
「……!」
思わぬ返しを受け、目を丸くする。
サナは俺から手を離すと、うーん、と考え込むように首を傾けた。
「そうですね、わたしが鳴海さんのそばにいる理由は……
 鳴海さんがそういう事を言ってしまう人だから、でしょうか」
「……どういうことだ?」
「人との関わり方や甘え方がへたくそで、すぐに自分に自信を失くしてしまう。
 そんなあなただから、放っておけなくて……愛しさが増していくんです」
まっすぐに俺を見据えるサナ。
茶化すようなそぶりを見せない素直な物言いに、胸が締め付けられる。

「大丈夫ですよ、鳴海さん。わたしは決して、あなたから離れたりしませんから」
サナは俺の隣に寄り添うと、自分の左手を掲げてみせた。
その薬指には、俺があげた小さな輝きが光っている。
「鳴海さんが与えてくれたこのおそろいの指輪と、『津田原』という姓が、その約束の証です」
「……そう、か」
「安心しましたか?」
照れが混じって、うまく返事が出来ない。
言葉もなく小さく頷くと、それだけでもサナは満足したらしく、
俺の身体をぎゅっと抱きしめてきた。

俺もそれに応えようと、手を伸ばした。 ……けれど。

抱きしめた華奢な身体の感触に、違和感を覚える。
何度も触れたサナの肌。愛しくてたまらない、世界でたった1人の俺の妻。

そのはず、なのに――……

「……悪い」
俺はサナの肩を掴むと、自分から引き剥がした。
サナの胡桃のように丸い瞳が、驚きで更に丸くなる。
その表情に耐え切れず、顔を背ける。
すると、部屋の一角に置かれた写真立てが目に飛び込んできた。

純白の、西洋の婚礼衣装に身を包んだサナ。
幸せそうに微笑む彼女の隣で、仏頂面の俺が突っ立っている。

『挙式を上げない代わりに、せめて写真で思い出を残そう』。
そう約束して写真館で撮った、思い出の写真。

だけど――

(……おかしい)

写真を撮ろうと約束したあの日に見た光景が、頭の中にフラッシュバックする。

国の政策に反発する連中の叫び声。

轟く銃声。

純白のドレスに滲む赤。

ひゅうひゅうと、声にならないサナの息遣い――……

「あ……」
気付けば、自分の手が震えていた。
鼓動が早鐘を打ち、視界が涙で滲む。
「う……ぁ、あ……ッ!」
脳に強烈な痛みを覚え、思わずうずくまると、俺の身体をサナが支えた。
藁にもすがる想いで、サナの手を掴む。
サナはそんな情けない俺を突き離すこともなく、ただただじっと、顔を覗き込んでくる。
「もう少し、新婚さんごっこを楽しみたかったんですが……
 鳴海さんの心が、それを良しとしていないみたいですね」
「……どういう、ことだ……?」
「鳴海さんの心が帰りたがっているんですよ。
 いつまでもこの夢に浸っていたらいけない、帰るべき場所に帰らなきゃって」
サナは手を伸ばして、俺の目尻に溜まった涙を拭う。
クリアになった視界の中で、サナが笑った。

「ごめんなさい、鳴海さん。わたしは嘘をつきました。
 あなたから離れない、なんて……もう守れない約束を口にしてしまった。
 でも、大丈夫。鳴海さんのそばには、あの子がいるから。
 あの子はわたしが叶えられなかった分も、鳴海さんのことをうんと幸せにしてくれるはずです」

サナにかけてやりたい言葉があるのに、うまく声が出せない。
ぱくぱくと口を開けて閉じてを繰り返していると、サナは俺の唇に自分の人差し指を添えてきた。

「もう何も喋らなくて大丈夫ですよ。つかの間の新婚気分を味わえただけで、もう十分です」
「……サナ……」
「今まで、鳴海さんにたくさん寂しい想いをさせてしまって、ごめんなさい」
「サナ、俺は……っ!」
「ほら、もう行ってあげて。鳴海さんの、一番大切な女の子のもとに」

サナは俺の前髪をよけると、露わになった額に短くキスを落としてくる。
そして……

「今度こそ、たくさん幸せになってくださいね。
 鳴海さん……ううん、ナミ先生」

かつての俺が愛していた、花のような笑顔を見せてくれた。

* * * * * * * * *

「起きてってば、ナミ先生……ナミ先生!!」
「ぐぉっ!?」

ドスンッ! ……と、腹部に衝撃を受けて、痛みと驚きで思わず声が上がる。
固く閉じていた目を開けると、人の姿に化けた飼い猫が、俺の顔を覗き込んでいた。

「ナミ先生、やっと起きた~! もう、寝ぼすけなんだからー」
「ユユ……起こしてくれたのはありがたいが、もう少し優しくしてくれないか?」
「優しく起こそうとしたよ! でも、ナミ先生がなかなか起きなかったの!」
だからと言って何も腹にパンチしなくても……と抗議したい気持ちはあるものの、
この飼い猫がますます膨れ面をするのは目に見えているので、俺は黙ったまま身を起こした。
「ふぁぁ……今何時だ?」
「夜の7時だよ~。先生ってば、部屋で黙々と仕事してるのかと思ったら寝てるんだもん!
 もう、あの子がリビングで晩ご飯を用意して待ってるよ?」
そんなことを話していると、扉の向こうから
「ユユー! 手伝ってー!」という、あいつのはつらつとした声が聞こえてきた。
ユユはそれに返事をすると、さっさと部屋を出ていく。
去り際に、「先生も早く来てね!」と釘を刺すのも忘れずに。
それに適当に返事をすると、俺はのろのろとした動作で立ち上がった。

(……また随分と、強烈な夢を見たもんだ)

サナの夢を見たのは、本当に久しぶりだった。
あいつが死神養成学校を卒業して、
この新居で2人暮らし(ユユも含めると3人暮らしだが)をするようになってから、
おそらくこれが初めてのことだ。

だが、サナの夢を見るのは、これが最後な気がする。
そんな予感に寂しさを覚えたものの、
以前の俺のような、胸に穴が空くような苦しみは感じなかった。

それだけ自分が、『サナ』を過去のものにできているということなのだろうか。

そんな物思いに耽りつつ、ふと、視線を窓の外に移す。
そこに見えるのは、本物そっくりに造られた偽物の夜空。
初代死神主人がつくった、行き場を失くした死者を慰めるための、虚しい世界。

この世界が、俺は憎くて仕方なかった。
サナのいない世界に、意味なんて感じられなかったから。

でも、そんな俺をあいつが変えてくれた。

サナと同じで、でも違う存在。
あいつにサナを重ねようとする俺に、あいつは何度も、
あいつ自身としての言葉を、気持ちを投げかけて、俺の目を覚まそうとしてくれた。

過去に囚われ続けていた俺を引っ張り上げ、
この世界にも光ある未来が訪れることを教えてくれた。

『鳴海』にはサナしかいなかったけれど、
『ナミ』にはあいつしかいない。
……それぐらい、大切な存在だ。

「サナは……俺があいつを選ぶことを、許してくれるか?」

夢の中で見た、俺とあいつの幸せを願ってくれたサナの姿を思い返す。

あれは、俺の願望から来る自分勝手な夢だったのかもしれない。
でも、どうしても信じたくなってしまう。
あの言葉は、サナが今の俺に向けたものだったんじゃないか、と。

「ごめんな、サナ。
 それから……ありがとう」

ぽつり、と小さく呟く。

するとその直後、部屋の扉がバタンと開いて、俺は思わず驚きに身をすくませてしまった。
振り返ると、そこにはあいつの姿が。

「先生、どうしたの? ご飯だって、ユユに呼ばれたんじゃないの?
 心配になって見に来ちゃったよ」
あいつは首を傾げながら、俺の隣に立つ。
「今夜は野菜たっぷりのキッシュだよ!」
「へぇ……ちゃんと食えるものになってるのか?
 いつかみたいに、消し炭になってないだろうな」
「な、なってないよ! ちゃんと料理の勉強してるもん。ナミ先生の健康管理のためにね」
そう言って、自信満々に胸を張る。

その笑顔を見つめながら、俺は無意識のうちに手を伸ばし、
気付けばこいつの身体を抱きしめていた。

「せ、先生!? な、なに、どうしたの……!?」
こんなこと、普段の俺ならめったにしない。当然、俺の腕の中にいるこいつも大慌て。
だが、いくらかそうしていると、こいつもおそるおそる俺の身体を抱きしめ返してきた。

「先生、どうしたの……? 寂しんぼになっちゃった?」
「……なんだ、その寂しんぼってのは」
「先生がこういうことする時って、人恋しい時なのかなぁと思って」
こいつは片手をめいっぱい伸ばすと、俺の頭をよしよしと撫でてくる。
そして……
「先生は意外と拗ねやすいし、人一倍寂しがりだから、放っておけないなぁ。
 そんなところが好きだけど!」
……と、得意気に笑った。
夢の中のサナと同じようなことを口にされ、俺の表情に苦笑が浮かんでしまう。

(寂しい……か。俺の気持ちは、こいつに筒抜けだな)

能天気なようで、意外に人をよく見ているこの恋人には頭が上がらない。
俺を包みこもうと一生懸命に腕を動かすこいつに、また愛しさが溢れた。

「だがしかし、10も年下の恋人に甘やかされるっていうのは、ちょっとな……」
「そう? わたしは嬉しいよ。先生が弱ってるところを見られるのはわたしだけだもん。
 だから、どーんと甘えていいんだよ!」
俺から僅かに身を離し、にっこりと明るい太陽のような笑顔を浮かべるこいつ。

(……簡単に言ってくれるな)

俺はやれやれと肩をすくめると、こいつの身体をもう一度引き寄せた。

そして、額にそっとキスを落とす。

「……へっ? えっ?」
俺がパッと手を離すと、こいつはキョトンと呆けた顔をして俺を見上げていた。
「な、なに? 先生、いま何を……!?」
「言われた通り、ちょいと甘えさせてもらっただけだ」
「甘えるって!? い、いま、キ――」
「あんまり迂闊なこと言うなよ? 大人が本格的に甘え出したら……
 この程度じゃ、到底済まされないんだからな」
「……~~っ!!??」

真っ赤になるこいつを置いて、俺はスタスタと部屋を後にする。
背後であいつが何か喚いているようだけれど、素知らぬフリを貫いた。

振り返るわけにはいかない。だって……

(……良い大人が、額にキス程度で緊張してるなんて、どうかしてる)

きっと今、自分はどうしようもなく情けない顔をしている。
それが分かるから、こんな顔をあいつに見せるわけにはいかない。
大人だって、恋人の前では格好付けたいのだ。

とっくに止まっているはずの心臓がトクトクと音を立てているのを感じながら、
ふと、もう一度窓の外を見やる。

(まだまだ情けない俺だけど……頑張るよ。
 あいつを、サナ以上に幸せにしてやれるように)

そんな俺の誓いに応えるかのように、一粒の星がきらりと瞬いた。

先頭に戻る