それは、身が凍るほど冷え切った、とある1月の朝のことだ。
身支度を整え、仕事用のバッグに今日の収録で使う台本を詰め込む。
これで準備は万端。いつでも仕事に行ける……のだが。
おそるおそる、自室のベッドの方へと振り向く。
そこでは――……
俺のカノジョが、すやすやと寝息をたてていた。
何でこいつがここで眠っているかと言うと……別に、俺達が何かやましい事をしていたわけじゃない。
昨日の夜、俺が出演している深夜アニメをあいつと一緒に観て、そのまま揃って寝オチしてしまった。ただそれだけだ。
だから、やましさなんて何もない。
一線を越えたアレソレとか……それだけはマジでない。
絶対。神に誓って。
(……って、俺は誰に何を言い訳してんだ)
頭をボリボリとかいて、ベッドのそばに屈みこんだ。
こいつは未だ起きる気配を見せず、目をつむったまま。
あまりに気持ちよさそうな寝顔に、起こそうと伸ばした手が止まってしまう。
(今日、こいつはオフだっつってたか……。
このまま放っておいてやるか)
そう決めて、こいつの頭を撫でてやる。
起こさないようにそっと触れただけのつもりだった。
けど、そこでこいつの目がふっと開かれてしまう。
あわてて手を離すも、もう遅くて。
こいつは焦点の合わない目をぼんやりと俺に向ける。
そして……
「……しーばさん、おはようございます」
と、呂律のまわりきってない挨拶を口にした。
(……………………か、可愛い、な)
3次元女子の破壊力っていうのは、こうも威力のあるものなのか。
こいつと一緒にいるようになってはや数ヶ月、俺は何度もそれを味わわされた。
最近は少し慣れてきたつもりだったけど……やっぱりこういう不意打ちにはまだ弱い。
俺は頭を抱えたくなる衝動を堪え、大きく息を吸い、無理やり動揺を抑えこみ――一言。
「……はよ」
我ながらそっけない挨拶だけど、今の俺にはこれが精一杯だ。
でも、それでもこいつは満足したようにふにゃりと顔をほころばせた。
そして、片手で目をこすりながら身を起こす。
「まだ寝てていいんだぞ」
「ん……大丈夫……。……あれ?」
「どうした?」
「椎葉さん、髪、今日はそのままですか?」
指摘され、ハッとした。
そういえば、寝ているこいつに気を取られて、まだ今朝は髪を結っていなかった。
ヘアゴムを手にし、いつものように編み込もうとすると、「あの」と声を掛けられる。
「私が髪、結びましょうか?」
「え? いいのか?」
「任せてください! どうぞ、こっちに来てください」
ベッドに座るよう促され、指示通りに腰掛けると、こいつが俺の後ろに回りこんできた。
俺からヘアゴムを受け取ると、こいつは手櫛でさらりと髪を梳いていく。
(……なんか……変な感じ、だな)
俺の髪に、女子の細い指が通る感触がなんだかむずがゆくて、思わず身を硬くしてしまった。
でも、こいつは俺の心境なんてお構いなしに、俺の髪をどんどん編み込んでいく。
最後にゴムでまとめると、「出来ました!」と楽しげな声が上がった。
「ありがとな」
「いいえ。椎葉さん、いつも自分で髪の毛編み込んでるんですか?」
「まあな」
「編み込みなんて、よくやり方知ってましたね?」
「妹に教わったんだよ。俺が髪いじり出したのも、妹がキッカケ」
「へぇ……妹さんが……」
こいつは感心したように呟くと、俺の背中に寄り添い、体重をかけてきた。
「お、おい……何だよ……」
「……妹さんと、仲良いんですね」
「いや……ンなことねーよ。ゲームオタクな俺のこと昔から嫌ってるしな。
けど、身なりだけはちゃんとしろって、外見について口うるさく言われ続けてたんだ」
「そうだったんですね……。椎葉さんの妹さん、いつかお会いしてみたいです」
言葉は穏やかだが、声色がどこか暗い。
それに、俺の背中にしがみつく手に力が込められている。
(つーか、あんまりひっつかれると……
あ、当た、当た…………)
「……羨ましいです」
背中に感じる柔らかな感触に思考が飛んでいきかけたのを、こいつの呟きが引き留めた。
「羨ましい? 何が?」
「……椎葉さんにこんなに近づける女の子は、私だけだと思ってました。
でも、妹さんは、私よりももっと前から椎葉さんと……」
「はぁ? いや、家族は別物だろ」
「そうなんですけど、でも……!
私よりも長く椎葉さんと一緒にいられて、ずるいです……羨ましいです!」
「いでっ! こら、背中叩くな!」
ポコポコと俺の背中を叩き出すこいつにあわてて抗議する。
すると、こいつは素直に攻撃を止めた。
けど……明らかに拗ねている。
顔を見なくても、背中から漂うオーラだけで十分それが伝わってくる。
「……家族に妬いてどうすんだよ」
呆れつつ、指でちょいちょいと招く。
するとこいつは、俺の隣にちょこんと座り直した。
犬のように従順な様に笑ってしまいそうになるのを堪えつつ、落ち込んでいる顔を覗き込む。
「家族と過ごすよりももっと濃い時間を過ごせばいいだろ。
その……これから先、2人でさ」
「……!」
俺の言葉に、こいつは弾かれたようにパッと顔を上げた。
そして、にっこりと嬉しそうな笑顔を見せる。
「そうですね! 椎葉さんの言う通りです。
これから2人で、たくさんの時間を過ごしましょうね」
「おう。……3秒前まで拗ねてたクセに、もう笑ってんな。ゲンキンなヤツ」
「そうさせてるのは椎葉さんです。
……そうだ! これから椎葉さんの髪を編むのは、私の役目にさせてください」
「え? まあ、別にいいけど……」
「ありがとうございます! ふふ、これで毎朝椎葉さんとお話出来ますね」
こいつは俺の右腕に自分の左腕をすべり込ませ、そのままぎゅっと身を寄せてきた。
会ったばかりの頃は感情が希薄で、何を考えてるのかわかりづらかったこいつ。
それが今や、こんなにもめいっぱい俺に感情を伝えてくる。
こいつを変えた要因の一つが自分なんだと思うと、くすぐったさに胸の奥が震えて……
自分の表情が緩むのを感じながら、空いた方の手でこいつの頭を撫でてやった。
――こんな風に、これからもこいつと穏やかな時間を過ごせていけたらいい。
そんなことを思った、とある日の朝だった。
* * * * * * * * *
「いや、良い話で終わらせようとするなよ」
「なんなのそれー!! 全然おもしろくないんだけど!!」
……俺が話し終えると、なぜか久世兄から真顔を向けられ、阿久根からブーイングをくらった。
「いや、面白さとか求めんなよ……。
お前らが最近の俺らの様子を知りたいってせがむから、教えてやったんだろ」
そう、俺はこの2人に突然ラウンジに連れ込まれたかと思うと、半ば強引にあいつとの近況を喋らされたのだ。
刑事ドラマの取り調べのように、「吐け!」と強引に。
あまりにしつこいから仕方なく言う通りにしてやったと言うのに、返ってきたのはこの反応だ。
呆れや怒りを通り越し、なんだか遠い目をしてしまう。
「俺達はそんなほのぼの話じゃなくて、もっとパンチの効いた話が聞きたかったんだよ。
なー、セラ?」
「そーそー。それなのに……なんなのもう!
一緒に寝たっていうから、てっきりそういう意味かと思って期待したのに」
「そ、そういう意味ってなんだよ!」
「そこまで言わなきゃわかんないの? だから――」
「うわあああああやめろおおおおおお!!!!!!」
手近にあったクッションを、咄嗟に阿久根に向かって投げつける。
そいつは見事に命中し、阿久根は「ムゴッ」とアイドルらしからぬ声を上げた。
「ちょっと! アイドルの顔に何してくれるわけ!?
この顔使ってオレがどれだけ稼いでると思ってるの?」
「セラ、どうどう」
立ちあがって抗議する阿久根の服の裾を久世兄が掴み、ソファに座らせる。
こいつらのやりとりを眺めながら、俺は深く息を吐いた。
「まったく……お前らは、すぐそういう話に持っていきやがって……。
発情期の動物か」
「健全な男子高校生って言ってほしいな。
っていうか、まったく発情しない剛がおかしいって」
「そーそー。ごーは彼女を前にしても何も感じないの?
仙人なの? 悟り開いてるの?」
「開いてねーよ!!」
「へぇ、否定するってことは……するんだな? 発情」
ふと気づくと、久世兄がにやりと口元に意味深な笑みを浮かべている。
それを見た瞬間、しまった、と停止した。
「そうなんだ~! ごーも、そういう気になったりするんだ!」
「なっ…………それ、は、その……」
「ほら剛、どうなんだ」
「………………………………なったりしなくも、ない、が」
「そっか。じゃあさっさと抱けばいいのに」
「ア゛ッ!!??」
しれっとした久世兄の言葉に、今まで出したことのないような声が出た。
「ごー、すごい顔!」と阿久根がゲラゲラ笑っているが、そんなの今は知ったことじゃない。
「お、お、お前な! 簡単にそういうこと言うなよ!
これだから最近の若いヤツは……っ!」
「ごーも十分若いでしょ」
「だよな。でも、剛にも人並みに男としての欲求があるんだって分かって安心した」
「な……俺はそんな、やましい事なんて……」
「それ」
久世兄は俺をピッと指さすと、急に真剣な顔でこちらを見た。
「『やましい事』って言うけど、彼女を抱くのは愛情表現のひとつだし、抱きたいと思うのは男として当然の感情だろ。
そんなムキになって否定する事じゃないって」
「そーそー。ごーは変に構えすぎ」
阿久根にも指摘され、俺は言葉を失くしてしまった。
「んじゃ、そういうことで……まあ頑張りなよ」
「ふぁいとー、ごーごー!」
2人は俺の肩をぽんと叩くと、ラウンジから出て行った。
残された俺は、また一つ息を吐いて、ソファの背もたれに身を預ける。
天井を眺めながら、あいつの顔がふと脳裏をよぎった。
……俺だって正直、あいつに触れられて何も感じないわけじゃない。
あの朝から習慣となりつつある、毎日の髪いじりだって……
あいつの指が俺の髪を梳くたび、妙な気持ちになってしまう。
でも、そんなことは決して口にも態度にも出せない。
久世兄は当然の感情だっていうけど、でも、俺にはどうしても……
いけない事のように感じてしまうから。
ずっと女を避けていた俺が、今更そんな感情を持つなんて……と。
そんな思考に陥っていると、ドアが開く音が聞こえた。
久世兄たちが戻ってきたのか、面倒だ……と思い、身動きすらしないでいると……
「椎葉さん!」
「どわっ!?」
俺の視界にあいつの顔がひょっこりと現れて、俺は大声を出してしまった。
あわてて背もたれから身を起こすと、いつの間にかそばに立っていたあいつが「驚きすぎですよ」とくすくす笑っていた。
「な、なんだよ。どうした?」
「台本を読み込み終えたので、自分へのご褒美に、椎葉さんに会いに来ました」
「……俺と会うことが、褒美になるのか?」
「なります! 一番のご褒美です」
こいつは拳を握って力強く言い切ると、俺の隣に腰掛けた。
その拍子に、腕と腕が触れ合う。
その瞬間、思わず俺はびくっと肩を弾ませてしまった。
(くそ……あいつらが余計なこと言ったせいで、妙に意識しちまう……)
ひとりで勝手に意識して、焦って、馬鹿みたいだ。
そんな自分を情けなく思っていると……
こいつの右手がにゅっと伸びて、俺の頭の上に置かれた。
そして、そのままくしゃりと撫でられる。
「……何やってんだ?」
「椎葉さんが何か困っているように見えたので、落ち着かせようと思って……。
頭を撫でられると、安心しませんか?
私は椎葉さんに撫でてもらうたびに、安心してます」
(……安心?)
その言葉を、自分の今の心境に当てはめてみる。
確かにこいつにこうして頭を撫でられていると、ほっと気が休まる。
でも……そう思うのとは別に、むず痒い気持ちにもなっている。
触れられて恥ずかしい、でも気持ち良い、もっと触れられたい……。
……たぶんこれは、俺の『男』としての欲求だ。
(こんなの、『安心』なんて言わない。
俺は、こいつと同じ気持ちにはなれない……)
それに気づいた途端、なんだかむしょうに悲しくなってしまった。
(こいつは俺を気遣ってくれてんのに、俺は……何を考えてるんだ……)
そんな、罪悪感のようなものを覚えてしまう。
俺はこいつの手を払うと、ぷいと顔を背けた。
「俺は……『安心』はしねぇな」
「そうなんですか?」
「ああ。まあ、確かに気持ちは安らぐけど……それと同じくらい緊張して……
頭ン中ぐるぐるして、混乱して、余計なことを考える。
……俺はお前とは違うんだ」
だからもう触らないでくれ、という言葉を続けるよりも早く、腕をがっちりと掴まれた。
「お、おい……!」
「何も違いませんよ。私と椎葉さんは一緒です」
「いや、そんなことない。俺はお前と違って――」
「私も、安心するばかりじゃありません。
ドキドキして、落ち着かなくなって、でもやっぱり嬉しくて……
もっと椎葉さんに触れて欲しいなって思ってます」
「は?」
最後に、何かとんでもない事を言われた気がする。
聞き間違いだろうか、と思わず隣のこいつの方へと顔を向けると、気恥ずかしそうな視線がぶつかった。
するとこいつは、俺の腕から手を離し、代わりにちょいちょいと手招きをする。
なんだろう、と不思議に思いつつも、こいつの方へ上体を傾けた。
まるで内緒話をするみたいに、こいつの顔が近づいてきたと思ったら……
「今はまだ、このドキドキに慣れるのに精一杯ですけど……
もっと大人になったら、してくださいね。『やましい事』」
耳元に、そんな言葉を注ぎ込まれた。
続けて頬に感じる、柔らかい感触。
それがキスだと気づいた時には、こいつは勢い良く立ち上がっていた。
「……は? おい、まさかお前、さっきの話聞いて――」
「いいえ、何も聞いてません! 失礼しました!」
真っ赤な顔をして言い捨てると、ラウンジからぴゅーっと走り去っていく。
残された俺は、身動きひとつとることも出来ず……
あいつに告げられた言葉の内容を、ぼんやりと噛み砕いていた。
(あいつも俺と同じ気持ちで……俺に触れられたいって思ってて……
でも、今はまだいっぱいいっぱいで……
けど、最終的には『やましい事』がしたいと思ってる?)
……それは、つまり、その、えぇと。
20年前のゲーム機並みに動かない思考回路を無理やり起動させ、混乱していた俺は、ラウンジに新たにダメおっさんが入ってきていたことにも気づかず――
「剛君~? 彼女が全速力で廊下を走ってたけど、一体何が……っ、!?
ちょっ、どうしたの!? すっごい鼻血出てるよ!?」
「……ア?」
状況の整理もままならないまま、鼻にティッシュを詰め込まれたのだった――。