―ーある日のラウンジにて。
「ぶわっはっはっはっは!! 何それ、藤吾おもしろすぎ!!」
俺は、幼なじみの1人に盛大に笑い飛ばされていた。
「乃亜……どうして笑うかな。俺は真剣に悩んでるんだけど」
「ふ、ふふ……真剣なのが面白いんだって……ふふっ、あーお腹痛い……あははっ!」
「乃亜、笑うか喋るかどちらかにしろ」
傍らにいた澪がため息とともに制すると、乃亜は「じゃあ笑うことにする」と言い、ソファに転がってケラケラと笑い出した。
楽しげな幼なじみの様子に、俺は顔をしかめてしまう。
――事の発端は、2日前に遡る。
* * * * * * * * *
それは、俺が自室で、恋人と『いつもの時間』を過ごしていた時のことだ。
彼女の課題の面倒をみるのに一区切りつき、他愛もない会話に興じている最中、彼女は思い出したようにふと口を開いた。
「そう言えば私、今度、撮影でキスシーンをやることになったんです」
「え?」
まるで「今日の天気は晴れです」とでも言うように、事もなげに告げられた言葉。
あまりにもしれっとした態度で口にするものだから、聞き間違いだろうかと自分の耳を疑ったほどだった。
「……キスシーンって? どういう内容のものなの?」
平静を取り繕い、動揺を悟られないよう注意を払いながら尋ねる。
「あくまで私は脇役なので、それが見せ場というわけではありませんよ。
主人公の男性に、軽く触れられる程度です」
「……そう。それで? 主役を演じる俳優は誰?」
「千羽駆さんです。先輩は共演したことありませんか?」
記憶の糸を手繰りよせ、その人物の情報を呼び起こす。
(以前、何かの撮影で共演したような気がするような……)
芝居に大した興味を持たなかった頃の記憶は曖昧で、はっきりと思い出せない。
千羽のこともほとんど覚えていないものの……現場にいるスタッフや共演者、誰にでもフランクに声を掛ける優男、という印象だけは残っている。
(あんな軽そうな人と? この子が? ……キス?)
一つ一つのワードを頭の中で繋いでいると、勝手に眉間に皺が寄っていく。
「……で? その撮影はいつ?」
「3日後です」
「……! すぐじゃないか」
「そうですね、もうすぐです」
驚く俺とは対照的に、彼女は平然と返事をする。
今日、こうして会話をしなかったら、この子は俺に何の断りもなく、勝手にキスシーンに挑む気だったのだろうか。
そう思うと、胸に薄暗い感情が広がっていくのを感じた。
もやもやと、渦を巻くように……。
その感情に押されるまま、口を開く。
すると、
「……ふうん。まあ、好きにしたら? キスでも何でも」
思いのほか冷え切った声が出て、自分自身驚いた。
彼女も俺の変化を悟ったらしく、キョトンと目を丸くしていた。
でも、肝心な俺の感情までは読みとれないみたいで……何も分かっていないその様子に、苛立ちが募っていく。
「先輩、どうしたんですか?」
伸ばされた彼女の手を払い、無言のまま立ち上がる。
そして、俺は禁句を口にしてしまったのだ。
「君は、俺と仕事のどっちが大事なの?」
…………と。
* * * * * * * * *
その後、俺は彼女を部屋から追い出してしまい、以来、ろくに会話をしていない。
このままではまずい、どうしたものか……と考えている最中、幼なじみ達に「何かあったのか」と声を掛けられ、悩みを素直に打ち明け、現在に至った。
――というわけだ。
「俺と仕事のどっちが大事、って……
それって、彼女が彼氏に言う言葉だと思ってたよ。
あ~面白い、涙出ちゃった」
ひとしきり笑い終えると、乃亜はソファで寝返りを打ちながら俺を見た。
「でもさぁ、その台詞、恋人に言われて面倒な言葉ランキング上位に入るよね。
大抵の場合、その台詞が出たら別れ時なんだよね~」
「え?」
「あーあ、せっかく藤吾に春が来たと思ったのに、もう終わっちゃうのか~」
(……別れる?)
思わぬ宣告に硬直するものの、乃亜の追撃は止まらない。
「藤吾がそこまで子どもっぽくて女々しいだなんて知って、さすがのあの子も引いたんじゃない?
嫌だよね~、キスの一つや二つで拗ねる彼氏なんてさ。
一方藤吾は、今までいろんな子とちゅっちゅしてきたっていうのに」
「……誤解を招く言い方はやめてくれないかな?」
「事実でしょ? 今まで何人と寝たのか言ってみなよ。ほらほら」
「知らない。覚えてない」
乃亜の態度に苛立ちを覚え、ぷいとそっぽを向く。
すると、それまで興味なさげに黙っていた澪がおもむろに口を開いた。
「あの端役ばかりの無名女優がキスシーンがあるほどの役を手に入れたなんて、大したものじゃないか。
役者の先輩として、後輩の成長を喜んでやったらどうなんだ」
「……え?」
予期せぬ角度からの指摘に、思わず目を剥く。
「ほぇ~、さすが澪。芝居馬鹿の言うことは違うね」
「おい、誰が芝居馬鹿だ」
感心しながらぱちぱちと手を叩く乃亜、そして顔をしかめる澪。
けれど今の俺には、2人の間に割って入る気力もない。
「……部屋に戻る」
反論の言葉を失くした俺は、それだけ言って立ち上がり、足元をふらつかせながらラウンジを後にした。
俺の頭の中には、新たに発生した色んな想いが渦を巻いていて……
「彼女と付き合い出してからの藤吾は、ホント面白い奴になったよね~」
「面倒臭さも増したけどな」
そんな2人のやりとりは、耳に入って来なかった。
* * * * * * * * *
その後、俺は自室に閉じこもっていた。
――キスシーンの一つや二つに目くじらをたてる、器の狭い恋人兼役者の先輩。
幼なじみ達に貼られたレッテルに、俺は頭を抱えながら深いため息を零す。
(……分かってる。俺が情けないのがダメなんだってことは)
この2日間、彼女とまともに顔を合わせていない。
気まずいから、という理由が大半を占めるけれど……それとはまた別の理由もある。
ともに芸能界で活動する身として、俺は彼女の成長を願っていたつもりだった。
それなのに、たかがキスシーンでこんなにふてくされてしまうなんて。
(……あの子がそんなシーンを演じるのは、まだ先のことだと思ってた。
無名女優のあの子には、そんなシーンのある役は当分来ないだろうって)
とどのつまり、俺は、心の奥底で見くびっていたのだ。あの子の才能を。
……そんな自分に嫌気がさし、合わせる顔がなくて、俺は彼女から逃げてしまっている。
『役者』としてあの子の成長を喜んであげたいのに、嫉妬にかられた『恋人』の俺がそれを邪魔する。
澪と恋人役を演じる彼女の姿には、素直に感動することが出来たけれど……
相手がまったくの他人となると、また話は別だ。
(……誰にも触れられて欲しくない)
だってあの子は、俺のものなんだから。
思い通りにいかない自分の心に困り果てていた――その時。
コンコンという小さなノックの音に、顔を上げた。
咄嗟に時計を見ると、針は『いつもの時間』を指している。
緊張しながら腰を上げ、扉に近づくものの、開けるのを躊躇してしまう。
すると、「姫崎先輩」と小さく俺を呼ぶ声が聞こえた。
――愛しの恋人の声だ。
それに招かれるようにドアノブに手を掛け、そっと回す。
すると、俺の意に反して勢い良く扉が開かれた。
その先には、強い眼差しで俺を見上げる彼女の姿が。
「……どうしたの?」
彼女から会いに来てくれて心底嬉しいのに、自分の唇から零れる言葉はそっけない。
すると彼女は何も言わずに部屋に押し入り、扉を閉めた。
そして、ぐいっと俺の前に詰め寄ってくる。
「ちょ、な、なに……」
あわてて後ろに下がって避けようとするものの、彼女は一切退かず、それどころかどんどん俺を追い詰めていく。
そんな攻防を繰り広げていると、足が何かにぶつかった。
それがベッドだと気付いた時には視界が反転し、俺はベッドの上に背中から倒れ込んでしまった。
彼女はそんな俺の上に躊躇なく跨ると、ぐっと顔を近づけ、覗き込んできた。
行動の意図が掴めなくて、当惑する俺に、彼女は――
「先輩と、キスしに来ました」
そう言って俺の胸倉を掴み、強引に唇を奪った。
突如奪われた酸素に、動揺で思わずもがく。
けれど彼女は離れることなく、尚も乱暴に唇を押し当ててきた。
「――っ、待っ……!」
肩を掴み、強引に引き剥がす。
俺を見下ろす彼女の顔色からは、感情が読みとれない。
「……どういうつもり?」
慎重に尋ねると、彼女の肩がぴくりと弾かれた。
「それは私の台詞です」
彼女は感情の見えない表情で呟くと、俺の胸の上に顔をうずめた。
「先輩、全然私と顔を合わせてくれなくて……寂しかったです。
どうしてなんですか?」
「……、それは……」
言い淀んでいると、きゅっとシャツを掴まれる。
その感触に、彼女の切実な想いを感じ取り、俺はため息とともに言葉を零した。
「……君とキスする相手に、妬いていたからだよ」
「キスならいつも先輩としてるのに?」
俺の本音を受けても彼女は顔を上げず、顔をうずめたまま尋ねてくる。
俺は更にため息を重ねた。
「そうだよ。散々君にキスしているのに、俺は妬いたんだ。
君に触れる相手にね」
「先輩は、私が誰かと恋人役をするのが嫌なんですか?」
彼女の質問は止まらない。
俺は半ばヤケになりながら、本音をさらけ出した。
「どっちも、かな。役者仲間としては応援したいよ。
でも、恋人としては……」
「何ですか?」
「…………嫌、だと思ってる。
君に触れていいのは、俺だけだから」
「そうですか」
自己嫌悪にかられながら口にした想いは、たった一言で一蹴されてしまった。
平然とした態度になんだか納得がいかず、咄嗟に彼女の肩を掴む。
「何なんだ? さっきから一方的に質問ばかりして。
今夜の君は意味不明だ。どうしたらいいのか分からない」
考えが分からない存在は、苦手だ。
どう接したらいいのか分からなくて、怖くなる。
そんな怯えを隠すようにわざと強めの口調で尋ねると、彼女の身体が震えだした。
泣かせてしまったのかもしれない、と俺はハッとし、息を呑む。
――でも。
「……ふふっ」
身を震わせる彼女から聞こえたのは、くぐもった笑い声だった。
ますます困惑する俺を、彼女が見上げる。
そこには、柔らかな笑顔があった。
「それならそうと、正直に言ってくれれば良かったのに……。
私、本当に寂しかったんですからね?」
強張った俺の頬を、彼女がそっと撫でた。
慈しむように、優しく。
「でも、嬉しいです。
先輩が私のことをそんな風に想ってくれていたんだって分かって……
愛されてるんだって実感しました」
その笑顔はとても可愛らしいけれど、俺は納得出来ない。
彼女に微笑まれる理由が分からないからだ。
「どうしてそんな風に笑っていられるの? 俺はこんなに苦しんでるのに」
疑問は、そのまま口をついて零れてくる。
「キスシーンのことを教えてくれた時もそうだった。
君はずっと平然としている。
どうして? 他の男とキスするのは、君にとって何でもないことなの?」
矢継ぎ早に飛び出てくる俺の疑問をすべて受け止めると、彼女はやっぱりクスリと微笑んだ。
「平気ではないですよ。
先輩以外の人とキスするなんて、やっぱり緊張しますし……。
でも、そんなこと、姫崎先輩には言えなかった」
「どうして?」
「キスシーンぐらいで動揺してるなんて、長年役者をしている先輩に言ったら呆れられちゃうんじゃないかと思ったからです。
かっこ悪くて、とても言い出せませんでした」
「……え」
「でも、こんなことなら私も正直に言えば良かったですね。
『役者』としてはとても言えない本音だったけど……
『恋人』として素直に告げて、甘えれば良かったです」
衝撃的な告白に、俺の思考が停止した。
要するに……俺達は互いに『役者』としての自分の感情を優先するあまり、『恋人』として本音を言い合うことを諦めてしまっていたのだ。
疑問が線で繋がったのを感じるとともに、なんだか脱力してしまう。
あれだけ悩んだこの2日間は、一体何だったのだろう……と。
「……ごめんね。寂しい想いをさせて」
今度は俺が彼女の頬を撫でる番だった。
彼女はくすぐったそうに身を竦ませ、再び俺の顔を覗き込んでくる。
「お互い様ですから、気にしないでください。
それよりも……」
なに、と尋ねるよりも先に、鼻先にキスを落とされた。
「さっきも言いましたよね?
私、今夜は先輩にキスをしに来たんです」
続いて、額に、頬にと降ってくるキスの雨。
その合間に、彼女は自身の気持ちを紡ぐ。
「先日の先輩の問いの答えですが……
私は『仕事』も『恋』も大切なので、どちらも全力で取り組みたいです。
なので撮影では、役をまっとうしてキスシーンをやり遂げようと思っています」
その言葉を聞いて、『恋人』の俺の胸が僅かに痛んだ。
すると、彼女は「でも!」と声を荒げる。
「そのせいで先輩を不安にさせるのは嫌です。
私が他の誰とキスをしたとしても、私にとっての一番は先輩だって分かってもらえるように……証として、今夜は、たくさんキスさせてください」
そう言って、彼女は二度、三度と俺の肌に唇を滑らせていった。
まるで羽が触れるみたいなささやかな感触は、彼女らしくて、とてもいじらしい。
一生懸命キスを繰り返す彼女の髪を梳くと、露わになった頬が真っ赤に染まっていることに気付かされ、鼓動が高鳴った。
(俺も……愛されてるんだ。この子に)
そう強く実感して、胸が苦しいくらいに締め付けられた。
でも……欲張りな俺は、彼女から与えられる優しい感触に、次第にじれったさを覚えてしまう。
「……こんなのはキスって言わないよ」
目の前にある温もりをぎゅっと抱きすくめると、そのまま身体を反転させ、ベッドに沈めた。
柔らかな唇を指でなぞり、困惑した瞳と見つめ合う。
「そんな風に唇を押しつけるだけのものは、キスと言わない。
今まできちんと教えてきたつもりだったんだけど、理解してもらえてなかった?」
わざと意地悪く言ってみせると、彼女はカッと頬を赤らめた。
何か考え込むように視線を逸らしたかと思ったら、今度は熱の籠った瞳を向けられる。
「……わからないので、教えてください。いつもみたいに」
小さな子どもがねだるように、両手を差し伸ばす彼女。
俺はそれに応えるように身を沈めて、欲しがりな唇に何度も口付けた。
世界で一番君を想っているのは俺なのだと、刻みつけるように――。